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お知らせ

1.お気に入りに登録を!
高齢者の方も、ぜひパソコンを使って、全国を旅したり、
歴史の中を巡ったり、他の人の「自分史」を拝見したりと、
その素晴らしさを味わってほしいものです。
最初は「お気に入り」に登録するなどして、
見るだけなら、すべてワンタッチでOKであることを説明してあげてください。

2.リンクフリーについて
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※ これからの作業予定 ※
(1)
四万十川源流域のとあるところに、幕末、国事に青春をささげ、若くして
逝った六人の志士たちの魂を祀った碑がある。 前田繁馬、掛橋和泉の
二人は、あの、龍馬と同じ年(1835年)に生まれ、ともに龍馬より早くその
短い生涯を終えている。 前田繁馬は、それでも戦いの中に散ったのだが、
掛橋和泉(かけはしいずみ)は、戦いに参加することすら許されず、出立前夜
義母に旅支度のすべてを奪われたことを知ると、銃でのどを撃ち、自害して
果てた。 少年のころ私は、この碑を見るたびに「何だかひとりだけ、ずいぶん
やさしい名前の人がいるなぁ」と思ったものだ。 伝えられるとおりなら、
あまりに悲しい生涯ではないか。
瀬戸内大橋を渡ったところから旅をはじめ、この碑に辿りつくまで、道中、
各地の写真、エピソード等をからませながら、夢の話にせまって行きたい。
(2)
四万十川源流域のホタルは撮影可能だろうか?
そこから数キロ下ったところにある下津井の蛍はどうだろうか?
更に下って沈下橋まで、と、興味は尽きない。
(3)
六志士の碑のすぐ南側の山の上に、昔、「もちつき城」と呼ばれた、
由来津野経高公の城跡がある。(やしろの痕跡らしきもののみ) 「お城」
とは呼ばれていたようだが、こんな山奥の、実質砦に等しかったに違いない
一豪族のお屋敷が、なぜ、地の人々に「もちつき城」などと愛着のこもる名で
呼ばれたのだろう。 昔、郷土史家「中越穂太郎氏」を訪ね、聞いた話の中
にそのヒントはあった。 できるなら、(このホームページの寿命が許すなら)
いずれ、その話についても書いてみたいものだと、つい、そんなことまで考え
てしまうのは、ひょっとして、どうやら、夢の見すぎか? ・・・・・ ???
参考文献・・・「天誅組」大岡昇平著(講談社)
・・・「義堂周信・絶海中津」寺田透著(筑摩書房)
・・・「梼原町史1」、「梼原町史2」
・・・「津野山どめき」中越穂太郎著、他。
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